諏訪信重解状
『諏訪信重解状』とは
諏訪大社上社の大祝(おおほうり)を務めた諏訪(諏方)家に伝わる文書の中に、13世紀半ばに上社の大祝を務めた諏訪信重(すわ のぶしげ)が諏訪下社の大祝・金刺盛基の訴えに対して、諏訪社の本宮は上社であることを主張して鎌倉幕府へ提出したと言われる解状(げじょう、原告が裁判所に提出する上申書・訴状)がある。それが宝治3年(1249年)3月の奥書を持つ『諏訪信重解状』(『大祝信重解状』『大祝信重申状』とも)である。
7箇条からなる本文には上社が本宮である由来が記述されており、上社の鎮座伝承、神宝、神事などが詳しく述べられている。1356年に成立した『諏方大明神画詞』よりも100年以上前に書かれたとされるこの文書は、鎌倉中期以前の諏訪上社の伝承や祭祀のあり方を伝える貴重な史料として長年評価されていたが、近年は文中の不可解かつ不自然な点の多さから、宝治年間以降に作られた偽書であるという説が浮上している。
諏訪信重について
諏訪小太郎信重は、鎌倉時代中期の武士兼諏訪上社の大祝である。生没年不詳。『諏方大明神画詞』や『神氏系図』では諏訪敦信(すわ あつのぶ)の嫡子とされているが、『吾妻鏡』(承久3年(1221年)6月11日条)では「諏訪大祝盛重(もりしげ)」の息子とされている。(『神氏系図』と『信濃国伴野庄諏訪上社神田相伝系図』は盛重を信重から4代目の大祝とする。)
『画詞』によると、承久の乱(1221年)に際して、「(鎌倉側について)速やかに発向すべし」という神託を受けた大祝敦信は長男の信重を出陣させた。(上社大祝は在職中に諏訪郡を出てはならない、または穢れに触れてはならないというタブーがあった。)信重は諏訪一族を率いて、武田信光・小笠原長清らを将軍とする東山道軍に従って上洛した。
時ノ祝敦信、大明神宝前ニシテ可否ヲ卜筮シケルニ、速ニ発向スヘキ神判アリ、疑殆立所ニ解テ、長男小太郎信重二、一族家人ノ勇士等相副テ発遣セシム、神氏ノ正嫡自ラ戦場ニ臨ム事、是最初ナルヘシ、
暦仁元年(1238年)に大祝に立職。『解状』によれば、宝治2年(1248年)に行われた諏訪社の造営(御柱祭)の際に上・下社の間に争いが生じた。幕府は「上下両社の諸事は本宮の例に任せて執り行うように」という判決を下すが、下社大祝の金刺盛基は上社は諏訪社の本宮ではないと申し立てた。これに対して、信重は幕府宛てに『解状』を書いたという。
『信重解状』の写本
この『解状』を書写した写本が2本現存している。
- 『諏訪信重解状書写』(B本)
諏訪市博物館所蔵の巻子本。文中には訓点(返り点・振り仮名)が施されている。巻子表紙の裏には、文化9年(1812年)に冒頭の欠落した部分を補うために神長官(じんちょうかん)守矢家が持っていた控書と照合した旨の書き込みがあり、この時期に装丁を整えたと見られる。また、奥書には「神長重書の内、他見に及ぶべからざるものなり」とある。このことから、大祝家だけでなく守矢家にも『解状』が伝来していたことがうかがえる。(現在は守矢家文書に『解状』が確認されていない。)戦前に『諏訪史料叢書 巻十五』(復刻版では『復刻諏訪史料叢書 第三巻』、以下『叢書』)に全文が翻刻され、『諏訪市史 上巻 原始・古代・中世』(諏訪市史編纂委員会編、1995年)の巻頭に全文の写真が掲載。
以下のテキストは基本的に『叢書』の翻刻文に基づくが、原文の訓点を取り入れていない。また、読み易くするために読点を増やし、翻刻文と異なる位置で施している。
- 『宝治年中 書扣之写』(A本)
B本と同じく諏訪市博物館所蔵の大祝家文書の一つ。元々は巻物であったが、糊の部分が剥離して、合計20枚の断簡状の文書となっている。B本とは語句・用字の異同が10数ヶ所あり、訓点も施されていない。二本松泰子「『諏訪信重解状』の新出本と『諏方講之式』―大祝家文書の中の諏訪縁起―」(二本松康宏編『諏訪信仰の歴史と伝承』所収)に全文翻刻。
参考
- 井原今朝男「鎌倉期の諏訪神社関係史料にみる神道と仏道―中世御記文の時代的特質について」『国立歴史民俗博物館研究報告』139、2008年、pp. 157-185。
- 「第八節 「大祝信重解状」と『諏方大明神画詞』」『諏訪市史 上巻 原始・古代・中世』諏訪市史編纂委員会編、1995年、pp. 811-814。
- 二本松泰子「『諏訪信重解状』の新出本と『諏方講之式』―大祝家文書の中の諏訪縁起―」『諏訪信仰の歴史と伝承』二本松康宏編、三弥井書店、2019年、pp. 117-161。